歴史・文化財
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蓮田市内の石造物の種類と数
石神6 富士講(ふじこう)
歴史
狭義の富士講は、戦国時代から江戸時代初期(16世紀後半から17世紀前半)に富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)で修行した角行藤仏の起こしたものを、後世、長谷川角行・藤原武邦とも)という行者によって創唱された富士信仰の一派に由来するそうです。享保期以降、村上光清や食行身禄によって発展しました。身禄は角行から五代目(立場によっては六代目とする)の弟子で、富士山中において入定したことを機に、遺された弟子たちが江戸を中心に富士講を広めました。角行の信仰は富士山の神への信仰ですが、それ自体は既存の宗教勢力に属さず、従って食行身禄没後に作られた講集団も単独の宗教勢力である。
一般に地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っており、富士山への各登山口には御師の集落がつくられ、関東を中心に各地に布教活動を行い、富士山へ多くの参拝者を引きつけた。特に甲斐国(現山梨県)の富士吉田は北口本宮冨士浅間神社とその登山口(現:吉田口遊歩道)があり、江戸・関東からの多くの参拝者でにぎわい、御師の屋敷が軒を連ねていた(最盛期で百軒近く)。富士講は江戸幕府の宗教政策にとって歓迎された存在ではなく、しばしば禁じられたが、死者が出るほど厳しい弾圧を受けたことはなかったようである。
明治以後、特に戦後、富士山や周辺の観光地化と登山自体がレジャーと認識されるようになったため、富士登山の動機を信仰に求める必要がなくなり、富士講は大きく衰退しました。
浅間信仰
富士山に対する信仰のことで、『富士講、浅間講など』江戸時代より発展した講組織の信仰もこれに入ります。富士山そのものを神とする信仰は、古くからのものであり、それを浅間神(あさまのかみ)と唱えての崇敬・信仰は、『三代実録』貞観(じようがん)6年(864)5月の条に記された富士山の噴火のことなどにもみられるように厚いものであり、それを祀(まつ)る社(やしろ)が、その周辺に多くあったこともみられます。
富士塚(ふじづか)
富士塚(ふじづか)は、富士信仰に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚である。造営の方法として主に、富士山の溶岩を積み上げたものやすでに存在した丘や古墳を利用したものがあります。
頂上には浅間神社を祀られます。富士講が盛んになった江戸時代に造られ、関東地方を中心に分布します。
富士山の山開きの日(初山)に富士講の人々が富士塚に登山する習慣がありますが、富士塚でこれに代用できるとされてきました。
富士塚は、1780年(安永9年)に高田籐四郎(日行)が江戸の高田に建てたものが最古であったとされています。
蓮田市内には、富士塚は今でも2基存在(川島と江ヶ崎)し、川島のものは一部道路工事により削平されていますが、自然堤防上に小高く構築され、水害対策にも利用されていた可能性もあります。
[ミニコラム]代参講
代参講とは、その様々な講に入っている人々を代表して、参拝するもので、ほとんどの講がこの形態を採られていました。
蓮田市内における同様なものには、大山講・秋葉講・榛名講・御獄講・大杉講などが行なわれていたようです。