蓮田市には、むかしの人(ひと)の生活(せいかつ)がたくさん残(のこ)っています。いろいろなところで遺跡(いせき)が発掘(はっくつ)されており、たくさんの貝塚(かいづか)や住居跡(じゅうきょあと)などとともに、黒浜式土器(くろはましきどき)などの土器(どき)もいっぱい見つかっています。貝塚のほとんどは6000年くらい前(まえ)のもので、このころは、蓮田市のあたりまで、海(うみ)があったことがわかります。では、いつごろから蓮田市に人が住(す)むようになったのかというと、今(いま)から30000年も前と考(かんが)えられています。
1700年くらい前(まえ)から日本(にほん)では、地域(ちいき)をまとめた人が大(おお)きなお墓(はか)を作(つく)るのが流行(りゅうこう)した古墳時代(こふんじだい)という時代が始(はじ)まります。蓮田市にその時代の終わりころ、1300年くらい前のものと思われる十三塚(じゅうさんづか)古墳・ささら古墳・椿山(つばきやま)古墳などがあって、かたなやくびかざりなどがたくさんでています。 1200年くらい前になると、元荒川(もとあらかわ)のそばに、ナイフやかまなどをつくる鍛冶屋(かじや)の集団(しゅうだん)ができてきます。850年ほど前、武士(ぶし)が力(ちから)をもってくると、つよい武士は大きな館(やかた)に住むようになります。市内にある「堀の内(ほりのうち)」はその館のあとです。およそ400年前の江戸(えど)時代になると、村(むら)ごとに神社(じんじゃ)やお寺(てら)もつくられ、まつりもさかんになりました。また、新しい田んぼもどんどんつくられ、村もふえていきます。今も田んぼに水を入れている見沼代用水(みぬまだいようすい)は、このころにできたもので、田んぼの水として使うほか江戸へいく航路(こうろ)として利用(りよう)され、昭和(しょうわ)の初めまでおおくの船(ふね)がとおっていました。
明治(めいじ)時代になると、埼玉県(さいたまけん)の管轄(かんかつ)になり、明治22年に綾瀬(あやせ)、黒浜(くろはま)、平野(ひらの)の3つの村が誕生(たんじょう)します。昭和9年、綾瀬村が蓮田町となまえをかえ、ついで昭和29年、これに黒浜、平野の2つの村が合併(がっぺい)します。さらに昭和31年には岩槻市(いわつきし)の一部(いちぶ)がくわわって、現在(げんざい)の市の範囲(はんい)となりました。そして昭和47年10月に蓮田市となりました。そのとき35,274人だった人口(じんこう)は、現在はだいたい64,000人となっています。

- 市役所(しやくしょ)の南側(みなみがわ)にある黒浜貝塚(くろはまかいづか)は、縄文時代前期(じょうもんじだいぜんき)の貝塚で、黒浜式土器(くろはましきどき)の標式遺跡(ひょうしきいせき)として有名(ゆうめい)な遺跡(いせき)です。広(ひろ)さは、東京(とうきょう)ドームとほぼ同(おな)じ約(やく)5万(まん)平方(へいほう)メートルです。
この黒浜貝塚は、縄文時代前期を代表(だいひょう)するとても貴重(きちょう)な価値(かち)のある貝塚と認(みと)められ、平成18年7月28日に国(くに)の指定史跡(していしせき)になりました。
貝塚とは、昔(むかし)の人々(ひとびと)がそこで生活(せいかつ)していたことを示(しめ)すもので、黒浜貝塚からもたくさんの土器(どき)や住居跡(じゅうきょあと)、貝塚などが見(み)つかっています。黒浜地区(くろはまちく)を中心(ちゅうしん)に分布(ぶんぷ)している13箇所(かしょ)の貝塚からも44点(てん)の土器が出土(しゅつど)しています。これらはいずれも黒浜式土器の特徴(とくちょう)をよく示しており、平成20年3月14日に埼玉県指定有形文化財(さいたまけんしていゆうけいぶんかざい)(考古資料(こうこしりょう))になりました。

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遺跡(いせき)の名前(なまえ)がその時期(じき)の土器(どき)の名前として使(つか)われることがありますが、こうした遺跡のことを標式遺跡(ひょうしきいせき)と呼(よ)んでいます。市内(しない)には、関山式土器(せきやましきどき)の標式遺跡である関山貝塚(せきやまかいづか)もあります。
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- 閏戸(うるいど)の式三番(しきさんば)は、毎年(まいとし)10月第(だい)2土曜日(どようび)に上閏戸(かみうるいど)の愛宕神社(あたごじんじゃ)で奉納(ほうのう)される民俗芸能(みんぞくげいのう)です。
江戸時代(えどじだい)の宝永年間(ほうえいねんかん)(1704~1710年)に秀源寺(しゅうげんじ)の僧(そう)が愛宕明神(あたごみょうじん)を祭(まつ)り、その時(とき)に復活(ふっかつ)したものといわれていますが、地域(ちいき)の人(ひと)たちのいい伝(つた)え以外(いがい)にその由来(ゆらい)を伝(つた)えるものは残(のこ)っていません。
白(しろ)い面(めん)の翁(おきな)と千歳(せんざい)、黒(くろ)い面の三番叟(さんばそう)が次々(つぎつぎ)と舞(ま)うもので、舞(まい)の中(なか)に種(たね)まきの仕草(しぐさ)や烏(からす)とびなどの農作業(のうさぎょう)にかかわる動作(どうさ)がたくさんあり、謡(うた)の文句(もんく)からも豊年(ほうねん)を祈(いの)り、繁栄(はんえい)を祝(いわ)うものであることがわかります。
また、県内唯一(けんないゆいいつ)の「式三番(しきさんば)」であり、昭和(しょうわ)47年8月5日に国選択無形民俗文化財(くにせんたくむけいみんぞくぶんかざい)に、昭和52年3月29日に埼玉県指定無形民俗文化財(さいたまけんしていむけいみんぞくぶんかざい)に指定(してい)されました。 -

- 板石塔婆は、いろいろな供養(くよう)のためにたてた石の塔婆です。蓮田市には、通称(つうしょう)「寅子石(とらこいし)」と呼(よ)ばれているものがあります。高(たか)さが4メートルもあり、県内(けんない)2番目(ばんめ)の大きさで、県指定(けんしてい)の考古資料(こうこしりょう)になっています。1311年に唯願法師(ゆいがんほうし)が真仏法師(しんぶつほうし)の供養(くよう)のために建(た)てたものですが、寅子伝説(とらこでんせつ)という悲(かな)しいいい伝(つた)えが残(のこ)っており、「寅子石」と呼ばれるようになりました。

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むかし、この付近(ふきん)の長者(ちょうじゃ)に寅子(とらこ)というたいへん器量(きりょう)よしの一人娘(ひとりむすめ)がおりました。近所(きんじょ)の若者(わかもの)からの縁談(えんだん)も多(おお)く、両親(りょうしん)も喜(よろこ)んでいましたが、やがて婿選(むこえら)びに胸(むね)を痛(いた)めるようになってしまいました…。
そうしたある日(ひ)、若者たちのもとへ宴(うたげ)の招待状(しょうたいじょう)が届(とど)きました。若者たちは、いよいよ婿(むこ)が決(き)まるものと思(おも)い、喜んで出(で)かけていきました。
宴(えん)もたけなわとなったころ、若者たちに一皿(ひとさら)ずつ、なますが配(くば)られました。長者は「このなますは、実(じつ)は娘(むすめ)の肉(にく)でございます。寅子はどこへ嫁(とつ)いだらいいかと思い悩(なや)み、昨夜(さくや)『せめてこの身(み)を皆様(みなさま)に等(ひと)しく分(わ)けていただきたい。』と書(か)き残(のこ)して、自(みずか)ら命(いのち)を絶(た)ってしまったのです。」と涙(なみだ)ながらに語(かた)りました。その後(ご)若者たちは大(おお)いに悔(く)い悩(なや)み、寅子の供養塔(くようとう)を建(た)てました。
寅子の命日(めいにち)といわれる3月8日には、現在(げんざい)でもこの付近(ふきん)の婦人(ふじん)たちが、心(こころ)を込(こ)めたご馳走(ちそう)で供養(くよう)しています。

- 根金(ねがね)の稲荷神社(いなりじんじゃ)の境内(けいだい)に、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)による自撰自筆(じせんじひつ)の碑(ひ)があります。
これは龍之介(りゅうのすけ)と親交(しんこう)のあった蓮田市出身(はすだししゅっしん)の関口平太郎(せきいぐちへいたろう)の善行(ぜんこう)をたたえたもので、「正直(しょうじき)の頭(あたま)に神宿(かみやど)るとはかう云(い)う人(ひと)」と、平太郎に最大級(さいだいきゅう)の賛辞(さんじ)を送(おく)っています。全国(ぜんこく)で数少(かずすく)ない龍之介の碑文(ひぶん)の中(なか)で、これはもっとも古(ふる)いものとされ、さらに自撰自筆(じせんじひつ)の碑(ひ)はこの稲荷神社(いなりじんじゃ)の石碑(せきひ)だけということで、たいへん貴重(きちょう)な研究資料(けんきゅうしりょう)となっています。
関口平太郎は根金地区(ねがねちく)の農家(のうか)に生(う)まれましたが、幼(おさな)いころに病気(びょうき)を患(わずら)い、足(あし)が不自由(ふじゆう)になったため、あんま師(し)になりました。
「生まれつき情深(じょうぶか)い人」だと記(しる)されていたことからもわかるように、平太郎は子どものころから、困(こま)っている人を見過(みす)ごせない心(こころ)の優(やさ)しい人物(じんぶつ)でした。
彼(かれ)は自身(じしん)の困難(こんなん)にもかかわらず、明治(めいじ)38年、東北地方(とうほくちほう)が大飢饉(だいききん)に襲(おそ)われたとき、子どもたちに筆(ふで)や墨(すみ)・紙(かみ)・教科書(きょうかしょ)などの学用品(がくようひん)を贈(おく)りました。
また大正(たいしょう)5年、平太郎の出身地(しゅっしんち)である平野村(ひらのむら)などに、就学奨励金(しゅうがくしょうれいきん)を寄附(きふ)しました。
こうした数々(かずかず)の善行をたたえた碑文が刻(きざ)まれたのは大正6年、龍之介が25歳(さい)、平太郎が33歳のときです。
二人(ふたり)の親交は龍之介が35歳で亡(な)くなるまで、長(なが)い間(あいだ)続(つづ)きました。 -

- 見沼代用水(みぬまだいようすい)は、8代将軍徳川吉宗(はちだいしょうぐんとくがわよしむね)の命令(めいれい)を受(う)けた井沢弥惣兵衛(いざわやそうべえ)によって、享保(きょうほう)12年(1727年)に建設(けんせつ)された農業用水路(のうぎょうようすいろ)です。 農業用水のため池(いけ)である「見沼溜井(みぬまためい)」の代(か)わりとして造(つく)られた用水路であり、「見沼に代わる用水」という意味(いみ)で『見沼代用水』と命名(めいめい)されたといわれています。 市内(しない)の境界部分(きょうかいぶぶん)には、この中(なか)でも難工事(なんこうじ)とされた「柴山(しばやま)の伏越(ふせこし)」(白岡町境(しらおかまちざかい))、「瓦葺(かわらぶき)の掛樋井(かけどい)」(上尾市境(あげおしざかい))が存在(そんざい)しています。
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- 円空(えんくう)は江戸時代前期(えどじだいぜんき)に美濃国(みののくに)〔今(いま)の岐阜県(ぎふけん)〕に生(う)まれた僧侶(そうりょ)です。
彼(かれ)は不幸(ふこう)な人々(ひとびと)を救(すく)うため、生涯(しょうがい)で12万体(まんたい)の仏像(ぶつぞう)を残(のこ)すことを誓(ちか)い、旅(たび)に出(で)て多(おお)くの仏像を彫(ほ)り続(つづ)けました。円空の作(つく)る仏像は、ごつごつした彫り痕(あと)を残(のこ)しながらも、不思議(ふしぎ)なほほえみをたたえているのが特徴(とくちょう)です。彼は、旅の途中(とちゅう)で関東地方(かんとうちほう)に4年間(ねんかん)滞在(たいざい)し、このときに蓮田の黒浜(くろはま)・江ヶ崎(えがさき)に立(た)ちより、仏像を残しました。市内には今(いま)も24体の像が残されていて、そのうち観音菩薩立像(かんのんぼさつりつぞう)など18体が、久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)の宮司(ぐうじ)である矢島家で発見(はっけん)されました。矢島家の円空仏は、平成(へいせい)11年3月(がつ)17日(にち)に埼玉県指定有形文化財(さいたまけんしていゆうけいぶんかざい)(彫刻(ちょうこく))に指定(してい)され、大部分(だいぶぶん)が埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたまけんりつれきしとみんぞくのはくぶつかん)で保管(ほかん)されています。 






























