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更新日:2020年7月2日

縄文人の土木工事

「窪地状広場(くぼちじょうひろば)」の造成

宿浦のムラの中央に広がる「窪地」は東西約50メートル、南北約40メートルの範囲に広がり、集落(ムラ)中央の広場を最大80センチメートルも削り取っていることがわかりました。

写真1:整備前の窪地の概況

写真1整備前の窪地の概況(奥から開口部を望む)

概算で1,600立方メートルの土砂が運び出されたと推測され、現在の土木工事に換算すると2トントラック約800台分の土砂が運び出されたことになります。

図1:黒浜貝塚地形図・遺構配置図(JPG:70KB)

青森県の三内丸山遺跡のように縄文時代後期以降の「窪地」の土はこの周囲に盛られますが、これより古い時代である縄文時代前期の黒浜貝塚では、土が周囲に盛られた形跡は全くなく、行き先は現在のところ発見されていません。

「窪地」は北側の谷に向かって開口していることと谷に「湧水等の水汲み場」が存在し、集落と一体で活用された生活空間であったと考えられることから低地の造成等に利用されていたものと推測されます。

 

「硬砂層(かたすなそう)」の形成

写真2は、「硬砂層(中央やや下側の灰色の層)「その上に堆積している関東ローム層」及び硬砂層下に堆積している蓮田の地形が徐々に形成始めた頃の地層」の写真です。「硬砂層」はアップにした写真で見ると上下2層に分かれていることがお分かりいただけると思いますが、特に上面の「硬砂層」は40センチメートルを超える厚さを有しています。この層厚は周辺の大宮台地の地層の中でも非常に厚い堆積です。

写真2:硬砂層断面

写真2:硬砂層断面

「硬砂層」の下にある白い帯状の部分は粘土層であり、これ以前にはこの地が水の中にあったことを教えてくれています。「硬砂層」とはおよそ7万年前の川の流れによって形成された「自然堤防」の砂の堆積層です。このことは、今でも元荒川に堆積している砂のような状態であったと思われます。

このような周囲よりやや盛り上がった状態にあった土地の上に、数万年に及ぶ「火山灰」の堆積により形成された「関東ローム層」中の成分の流出により「硬砂層」が徐々に「硬化」し、加工のし易い「硬砂層」が形成されたようです。

「硬砂層」はこのように「関東ローム層」下のはるか昔の自然堤防の砂が『岩石』状の硬さを持ったものですが、写真3では硬砂層上面にあるはずの「関東ローム層」が全く発見されませんでした。このことは古代の人々の内、どの時代かの人々がローム層を削りだし「硬砂層」面を広い範囲に広げる工事を行っていたことが推測されます。

写真3:硬砂層採掘露頭面

写真3:硬砂層採掘露頭面

本来であれば、この上にはローム台地が存在していなければならないのです。

縄文人も活用した7万年前の石「硬砂層」

蓮田市周辺では元荒川を見てもわかるとおり、川原に石は存在していません縄文時代にも同じ状況であったことでしょう。当時の蓮田周辺の縄文人にとって「石」は貴重な資源だったと思われます。

想像の域ですが、谷に面した台地の斜面部には「硬砂層」と呼ばれる硬い石のような地層が崖(斜面部)の10メートル~11メートルの付近に露出しており、これを当時の人々が発見したのでしょう。そして、縄文時代前期及び古墳時代後期から奈良・平安時代にかけての人々が、様々な生活部材の確保・利用を目的とした採掘をしていたと考えられる場所(写真4)が確認されています。

写真4:硬砂層採掘跡と残骸

写真4:硬砂層採掘跡と残骸

黒浜貝塚だけでなく、隣接する宿上遺跡・宿下遺跡の貝塚から硬砂ブロックの着生したカキが発見されています。このことから、縄文時代前期には採掘した硬砂ブロックをカキの着生(半養殖)を目的とした着床材料として利用されていたことが推定されます。

最近では、この「硬砂層」市内の台地縁辺の至る所から発見されています。この厚さは確認されたどの地点でも40センチメートルを超える厚さを持ち、古墳時代後期から奈良・平安時代にかけての古墳の石室(せきしつ)や竃(かまど:写真5)の材料としても充分な厚さであり、様々な生活部材として利用されたのでしょう。

写真5:荒川附遺跡の硬砂層が利用されたカマド

写真5:荒川附遺跡の硬砂層が利用されたカマド

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