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更新日:2024年4月1日
黒浜貝塚(くろはまかいづか)は、縄文時代前期中葉の関東地方を中心に見られる土器型式「黒浜式土器」の標式遺跡・貝塚として、昭和50年3月31日に県指定史跡に指定されていました。
その後、蓮田市教育委員会では詳細確認調査を実施し、次のような結果が得られました。
『本貝塚は学史上著名であり、南関東の自然環境の変遷や当時の生業を考える上で重要であるとともに、集落の構造は、中期以降顕著となる環状集落の萌芽とも見られ、集落の変遷を考える上でも貴重である。』
その後、平成18年7月28日付け文部科学省告示第111号により『国指定史跡』に指定、平成25年10月17日付け文部科学省告示第147号により追加指定されました。
黒浜貝塚の宿浦のムラは、平成12年から17年と平成25年に詳細確認調査を実施しました。その結果、集落中央部分に北側谷部に向かって開口する東西約50メートル、南北40メートルの窪地状の広場があり、それを取り囲むように、住居跡51軒、土坑約50基、生活面廃棄貝層5ヶ所が存在することが確認ました。これにより、集落(村)が東西約150メートル、南北約95メートル程の範囲に広がっていたことがわかりました。
黒浜貝塚は、「黒浜式土器」の標式遺跡として重要であるばかりではありません。意図的な窪地状広場の造成、生活基盤の一つである貝採集のための硬砂層の利用等、当時の蓮田市周辺の自然環境を熟知し、調和を図った生活組織構造と人々の具体的な行動様式を窺い知ることができると考えているからです。
また、ほぼ同時期の遺跡が谷を挟んで形成されているにもかかわらず、椿山遺跡(椿山のムラ)内では貝塚が形成されず、炭釜屋敷貝塚(宿浦のムラ)では貝層が形成されるという、同様な環境の中でも対照的な集落が形成されている点も特筆されます。
調査成果を基に、元荒川に進入していたと思われる海水域を生活舞台とする縄文人達のより詳細な社会構造、意識構造を理解することも可能でしょう。今後は周辺遺跡も含めた構造把握を行うことにより、史跡「黒浜貝塚」がより理解できるように細部にわたって調査を実施していきたいと考えています。
詳細は、「黒浜貝塚パンフレット(PDF:3,249KB)」を参照ください。
史跡黒浜貝塚窪地状広場復元図(抜粋)
史跡黒浜貝塚低地部(海岸線と湧水)復元図(抜粋)
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