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更新日:2023年6月15日
平成27年度から行っていた整備工事が令和5年3月に完了し、4月より史跡黒浜貝塚の全面供用が始まりました。今月号の特集では史跡黒浜貝塚の魅力や見どころについて紹介します。
問合せ
社会教育課文化財保護担当(電話)048-768-3111(内線)162
史跡黒浜貝塚は今から約7000年前から5000年前の縄文時代前期の貝塚を伴う集落遺跡です。
史跡内には、谷を挟んで宿浦のムラと椿山のムラの2つのムラが存在していました。宿浦のムラは、窪地状の広場を囲むように円形に並ぶ住居跡や貝塚が確認されています。対岸の椿山のムラは、宿浦のムラとほぼ同時期に形成されており住居跡は確認していますが、貝塚は見つかっていません。当時、蓮田市内には海が入り込み、2つのムラの間の谷には小川が流れ、ハンノキ群落が水辺に存在したことが分かっています。
昭和52年に関東地方を中心に分布した黒浜式土器の標式遺跡として県史跡に指定された黒浜貝塚は、平成18年7月には、平成12年度から実施された詳細確認調査の成果と豊かな自然環境が残されていることから国史跡の指定を受けました。
その後、史跡整備を進めるにあたって、学術的な根拠を得るため、海の侵入が予想される低地部分にてボーリング調査と採取した土の理化学分析を実施しました。その結果、今から約7800年前には元荒川に海進(5ページD縄文の海参照)が及んでいたこと、史跡の南西部にその海の波打ち際が確認されたこと、史跡の中に川が流れていたこと、周囲にはクリやドングリなどの森があったことなどがわかりました。発掘調査も行い、宿浦のムラの4号住居跡からは当時の海浜環境を表す貝類や魚骨などとともに、県内最古の事例となる、約7000年前の埋葬されたイヌの骨が発見されました。
これらを踏まえ、市では平成26年に整備の基本となる「黒浜貝塚整備基本構想・基本計画」を策定し、「黒浜貝塚、渚と森の記憶」をキャッチコピーに定めました。平成27年度から5つのエリアを設けて縄文時代の景観を復元する整備工事を実施し、令和5年4月に全面供用を開始しました。
平成18年7月28日 |
国史跡に指定 |
平成20年3月 |
「黒浜貝塚保存管理計画」策定 |
平成25年10月17日 |
国史跡範囲の追加指定 |
平成26年3月 |
「黒浜貝塚整備基本構想・基本計画」策定 |
平成26年度 |
黒浜貝塚第1期工事実施設計 |
平成27年度 |
整備工事開始 |
平成27年度第1期工事 |
史跡整備のための発掘調査を実施椿山のムラを造成 |
平成28年度第2期工事 |
縄文の小川を造成 |
平成29年度第3期工事 |
縄文の海・縄文の浜辺を造成 |
平成30年度第4期工事 |
宿浦のムラを造成 |
令和元年度第5期工事 |
文化財展示館の黒浜貝塚ガイダンスシステム、VRを構築 |
令和2年度第6期工事 |
蓮田市黒浜貝塚ARアプリを作成 |
令和3年度第7期・ 令和4年度第8期工事 |
遊歩道舗装工事 |
令和4年度末 |
整備工事終了 |
令和5年4月 |
全面供用開始 |
令和5年4月30日 |
史跡黒浜貝塚整備工事完了記念式典 |
公共交通機関をご利用のかた
JR宇都宮線蓮田駅東口から、パルシー・根金・下大崎・菖蒲仲橋・蓮田駅西口行きバス「蓮田市役所」停留所下車、徒歩2分。市役所来客駐車場横。
お車でお越しのかた
市役所西棟来客駐車場をご利用ください。
縄文時代前期だけでなく、縄文時代中期・後期、古墳時代中期、後期、奈良・平安時代の集落が確認されています。特に奈良・平安時代の小鍛冶集落が有名です。
窪地の広場を囲むように円形に住居が並んでいました。宿浦のムラには貝塚が残されており、土器や石器、装飾品とともにハイガイやマガキなどの貝類、スズキなどの魚類、イノシシなどの動物の骨が見つかっています
ハンノキは低湿地に植生する落葉樹です。花粉分析によって縄文時代前期からこの水辺に存在していたことが分かっています。
縄文時代、地球全体が今よりも平均気温が2~3℃暖かくなり、大陸の高山地帯などの氷河が溶け出して海に流れ込み、海面が上昇する「縄文海進」という現象が起きました。この現象により、河川を遡って内陸に海が入り込みました。市内にも海が入り込んでおり、この時期の貝塚が10か所以上残されています。
ボーリング調査や理化学分析により、海水が入り込んでいたことが分かった範囲を当時の波打ち際として復元しています。ARアプリでは、当時の海の様子や海辺での生活の様子を見ることができます。
住居として使わなくなった後に貝塚が残された住居跡です。ここの貝塚からは、埋葬されたイヌの骨が発見されました。これは、貝塚が「ゴミ捨て場」としてだけでなく、再生を願う祈りの場所であったことを示しています
東西約50m、南北約40mの範囲を当時の人々が掘削し、窪地状にしました。広場として利用していたと考えられています。
ARアプリでは、詳細確認調査の結果を基にした集落の変遷を見ることができます。
約7万年前に河川の影響で溜まった自然堤防の砂が硬い石のように固まった地層のことです。縄文時代及び古墳時代後期から奈良・平安時代にかけてその時代に合わせたさまざまな用途で利用されていました。
史跡内のARポイントでアプリを利用するとスマートフォンなどを通して縄文時代の景観やくらしのほか発掘調査時の様子などを見ることができます。AppStore、Googleplayからお手持ちのスマートフォンやタブレット端末にダウンロード可能です。(機種によってはご利用できません。)
iOSはこちらからAndroidはこちらから
黒浜貝塚ガイダンスコーナーを設けており、史跡内から見つかった土器などを見学することができます。また、大型タッチモニターによる解説の視聴やVRによる縄文海進などの体験もできます。
令和5年3月に史跡黒浜貝塚整備工事完了を記念して、地質学と考古学、それぞれの分野の専門家をお招きし、講演会を2日間開催しました。ご講演いただきました2名の講師に、あらためて史跡黒浜貝塚について伺います。
PROFILE
新潟県出身。國學院大學名誉教授。黒浜貝塚整備活用委員会委員長を務める。令和5年、アメリカ芸術科学アカデミー会員に選出。
蓮田市
長年にわたるご指導ご尽力のおかげをもちまして史跡黒浜貝塚の整備工事が完了しました。先生の率直なお気持ちをお聞かせください。
小林先生
保存管理計画作成に始まり、20年以上かけて事業を行ってきたということは、黒浜貝塚に関わる人たちが、お互いにゴールをイメージして、こういうものにしたい、より良い形のものにしたいという気持ちがあったからです。市、市教育委員会、市民も参加している整備活用委員会にそのような気持ちがあったから私はできたと思っています。
これだけの長い期間にわたって市と市教育委員会がそういう柱を曲げることなく取り組んできたことに対してのご努力に、まず敬意を表したいと思います。
そしてこれだけの努力を重ねた末に今日を迎えたわけですが、これは整備の終わりでもありますが、それと同時に史跡黒浜貝塚の新たな始まりなのです。大事なのはここまで黒浜貝塚が残ってきた。みんなが見守ってきた中で、あらためて整備事業という新しい衣装を着せて、そして一から次の将来を見据えながら歩んでいこうという日を迎えたということです。これが大事です。
人間は今まで自然をいろいろなところで痛めつけてきました。そのことに対し、本当にささやかかもしれないですが恩返しとして、今日を出発点として、自然とともに黒浜貝塚に4次元空間というものを作り上げていこうと、この決意を新たにすべき時であることが自覚されなければいけないと思います。
蓮田市
先生が考えになる黒浜貝塚の見どころとはどんなところですか。
小林先生
名前が示す通り、貝塚を持つという事は縄文人にとってとても大きなことで、生活の大きな部分を貝塚形成というものにもかけていたということです。貝塚は単なる食べカスの捨て場ではありません。貝を縄文人たちの世界観に取り込むということを通して、あの丸いサークル状の縄文モデルムラというものを作り上げていくイメージと結びつけて、縄文人が貝塚を形成していたということです。もう一度あの原点に返る必要があると思います。結果として貝塚が出来たのではなくて、黒浜貝塚人が作ろうとして作った。それがあのスペースデザインというか、私は典型的な縄文モデルムラを黒浜貝塚にイメージすることができると思います。
蓮田市
縄文人の世界観に基づくスペースがあったということですね。
小林先生
貝塚が丸く途切れ途切れだけれどもそれをつないでいくと丸く輪を描く。これが「円」という縄文人の世界観と結びついて、その内側に一定の空間があり、いわば劇場空間というか、縄文人が日常的な生活とは別に特別な日、いわばハレの日というものを設けながらそこでいろんな行事が行われていた空間です。その行事というのは俗っぽい飲み食いをするようなものであったかもしれないですが、そこに黒浜貝塚人の祈りと願望と言いましょうか。そのようなものを重ねあわせていたということがじゅうぶんに推察されます。そのようにしてスペースデザインがなされていた。その真ん中に広場を持つ劇場空間を持っていたわけです。
蓮田市
劇場空間という言葉からどうしても現代をイメージしてしまいますが、縄文時代にもそのような場があったと考えてよろしいでしょうか。
小林先生
今の我々もそうですが、劇場空間を持つということはとても特別なことで、それが社会的な意味、それから自分たちのつながりというものをあらためて強めていきます。それから自分たちの存在というものを表現します。表現するというのは人間のとても大事な欲の一つです。黙ってただ過ごすのではなくて、自分たちはこういうものであるという主体性、自分たちの性(さが)みたいなものを、自分たちの意識みたいなものを形に表したものだと理解すると、遠い縄文人の黒浜貝塚の時代に限定することなく、今の自分たちと同じような考え方、思想と共通するものがあると考えてよいのではないかと思います。
PROFILE
東京都練馬区出身。東京大学理学部地学科卒業。日本大学名誉教授。令和3年秋の叙勲にて瑞宝中綬章を受章。
蓮田市
日本全国多々の貝塚がありますが、先生の考える黒浜貝塚の魅力はどこにありますか?
遠藤先生
黒浜貝塚の面白い点はいろんな側面があるなかで、貝塚と自然環境とのつながりがかなり明確になるという点が挙げられます。
縄文海進の中で陸地に海が侵入してきて奥東京湾を形成し、この奥東京湾が最も広がった時代に黒浜貝塚が成立します。その海との接点が、黒浜貝塚のいろんな状況から分かります。ハイガイが出土するというのは、非常に興味深いわけです。関東地方には今、ハイガイは存在しません。本来、ハイガイは亜熱帯種であり、その亜熱帯種の貝が、関東地方まで来ているということが非常に興味深いです。
縄文海進の前は紀伊半島の沖に黒潮が来ていましたが、縄文海進とともに黒潮は北上して、関東地方のやや北まで到達し、黒浜まで海が入ってきました。この現象は、複雑なプロセスですが、複雑なプロセスを解く鍵が黒浜貝塚にあります。個人的には一番そこが興味深いです。
また、マガキも出土しています。マガキは海面が上昇して陸地に海が侵入すれば、どこでも生息できます。ですからマガキが生息する意味とハイガイが生息する意味とは少し違います。マガキは淡水と海水が混じるような環境に生息します。
黒浜貝塚は、マガキとハイガイという2種類の貝を中心に構成されていて、それぞれが時間の経過とともに量が増える時期もあれば、減る時期もあります。そのような変化があるということを把握できる非常に重要な場所ではないかと思います。
黒浜貝塚でもう一つ興味深いのは、カキの殻に棒がくっついていたような痕跡があります。黒浜貝塚出土のカキを観察すると小石や土器片、巻貝などにくっついた状態のカキが見られます。その中で最も多いのが棒、植物の茎の痕、「棒付きカキ」と呼ばれています。この棒付きカキの存在は古くから指摘されていて、もしかしたら、人為的にやった養殖に通じるような行為ではないかとも考えられます。
蓮田市
貝塚というのは教科書にもでてきますが、私たちは貝塚を本来どのように捉えたらよいですか。
遠藤先生
黒浜貝塚は小宮雪晴生涯学習部長が詳しく検討していて、貝塚は人間が食べたもののゴミ捨て場というだけの存在ではない、と考えています。
では、単純にゴミ捨て場というものではないとするなら、例えば儀礼的な要素があったのか、埋葬したのか、いろんな可能性をそこから広げることができるのではないかと思います。みなさんもそういう視点から勉強していったら、話はもう一段広がると思います。このように、いろんな議論を進めていく種が黒浜貝塚にはあるのです。
蓮田市遠藤先生が情熱を傾けられた研究分野の魅力をお聞かせください。
遠藤先生私は長い間、沖積層の研究をやってきました。沖積層は、地球の歴史のなかの最後の時代にできた地層です。歴史の最後ということは、現在そして未来につながるわけです。現在起こっていることを見極めようと思ったら、一番近い過去、つまり沖積層の時代が大事だろうということで、沖積層の研究をしてきたのです。具体的に言うと災害問題というのは、津波や洪水が起こることがあります。長い目で見ると、それも自然の中で起こってきている歴史といえます。津波も自然の現象の一つ。洪水も自然の現象の一つ。そのような自然の現象が沖積層という地層を作ってきました。逆に言うと災害の問題を見るには、自然の過程をもっと見極めることが大事だと思います。
蓮田市沖積層に自然現象の痕跡や災害の記憶が蓄積されているということですね。縄文時代の環境復元も、生活復元も沖積層研究で可能になり得るということですね。
遠藤先生そうだと思います。今、災害と言っていますが、そこに人が住んでいなければ災害になりません。それは単に洪水ですよね。人が住んでいるから、被害があるから自然災害となるわけです。すべてそのような関係にあるので、その自然現象そのものをもっと見ていかなければいけないと考えるのです。
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