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更新日:2023年4月1日

蓮田の梨の歴史

埼玉県のなしの栽培は江戸時代の中期からと伝えられていますが、蓮田市のなしの始まりは明治28年頃でした。

蓮田市のなしの始まりをたどると、旧菖蒲町(現久喜市)の木村本家より井沼の石井利兵衛さんが明治28年頃導入したものが一番古いようです。その後も旧平野村では、明治末期に高虫の鈴木義平さんが、また上平野の小林金次郎さんが大正末期にそれぞれ菖蒲町から導入し、戦前は親戚縁者を通じて栽培されてきました。この中で、小林金次郎さんは昭和18年埼玉県で初めて長十郎の無袋栽培を始め蓮田市のなしの評価を高めたと伝えられています。

旧蓮田町のなしの始まりは、やはり菖蒲町の木村家で技術取得した白岡町の江原紋吉さんより明治末期に貝塚・閏戸地区を中心に教えられたのが最初のようです。

明治43年の大洪水には、米・野菜などが全滅状態であったにもかかわらず、「なし」だけが小被害だけで済んだということも蓮田市になしが広まる契機になったと言われています。

五十嵐翁報恩碑

石碑

この記念碑は、埼玉梨の主産地である南埼玉郡北部地方に梨栽培を伝え広めた、五十嵐八五郎の功績をたたえた記念碑で、「五十嵐翁報恩碑」といいます。この碑は、江面95番地(久喜南中学校付近)から昭和16年久喜本96番地(橋戸交差点付近)に移り、昭和42年の県道さいたま栗橋線開通に伴い上早見86番地(現本町4-3-5)に移転し、平成23年にふるさと農園久喜内に移されて、現在に至っている。

「五十嵐八五郎は今から百三十五年前に菖蒲町三箇に生まれました。明治4年に家を出て群馬県大島村、千葉県、埼玉県熊谷市などで約10年間なしの研究をしました。なしは非常に収益がよいことから、たくさんの人に教えることとしました。明治17年菖蒲町三箇の荒川浅五郎さん、明治23年に菖蒲町栢間の木村喜平治さん、久喜市江面の田島勘蔵さんにその技術を伝えました。その後近隣にわたってなしの栽培方法を伝えました。大正11年12月」と石碑に書いてあります。

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