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更新日:2016年12月1日

人物(飯野喜四郎)

飯野喜四郎(いいの・きしろう)(1868年~1940年)

飯野喜四郎は、蓮田市の発展を語るうえで欠かすことのできない人物です

飯野喜四郎は明治元年6月、綾瀬村(現蓮田市)に生まれました。喜四郎の父、飯野吉之丞(きちのじょう)らは明治18年東北本線が開通の際、駅の敷地を寄附して蓮田駅を開設させ、蓮田のまちの基礎をつくりました。明治18年、喜四郎が17歳のとき吉之丞が病気で亡くなります。喜四郎は蓮田の発展を願った父の考えを継ぎ、明治20年飯野運送店を開業、開通した東北本線で蓮田の特産物である甘藷(かんしょ)を東北地方に販売しました。大正8年には武州鉄道株式会社を設立し、大正13年に武州鉄道を蓮田から岩槻間に開通させ更に産業の発展に尽くしました。

また喜四郎は若くして政治を志し、明治27年25歳で県議会議員となります。その後11回も当選し埼玉県議会議長、政友会埼玉県幹事長を歴任し、埼玉県の発展に貢献します。特に県東部の教育の普及と向上に力を注ぎ、粕壁中学校(現在の春日部高等学校)を開設、その後浦和高等学校(現在の埼玉大学)を設置するなど教育発展のために尽力しました。

治水事業や農業の発展にも力を注ぎました。県内でおきた大水害を見てきた喜四郎は、県民が安心して暮らし、産業を発展させるためには治水事業を進める必要のあることを訴え、河川の改修問題に取り組み、古利根川・元荒川・中川・綾瀬川の改修を行いました。また耕地整理の問題に取り組み、蓮田や新方領などの事業を成功させ農業の発展にも尽くしました。

美しい白髪の喜四郎は、「埼玉の原敬」と呼ばれ、その誠実な人柄とともに人々の親しみと尊敬を集め、昭和13年には銅像が作られました。そして昭和15年、郷土のため県民のために尽くし71歳でその生涯を閉じました。

また、喜四郎は様々な出来事を日記として残しています。この記録を『飯野喜四郎日記1』、『飯野喜四郎日記2』として刊行しました。詳しくは刊行物一覧をご覧ください。

なお、蓮田市内の堂山公園は喜四郎の生家があった場所で、現在は銅像が立てられています。

飯野喜四郎

埼玉県庁にて飯野喜四郎(昭和9年)写真提供:脇田淳子さん

飯野喜四郎銅像

初代は立像でしたが、戦争で供出され昭和34年に再建されました

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