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更新日:2016年12月1日
東口駅前
西口駅前
蓮田市は、埋蔵文化財の宝庫といわれるように、市内いたるところで遺跡が発掘されており、おびただしい数の貝類や住居跡などとともに、関山式土器、黒浜式土器等の貴重な遺物も出土しています。貝塚は、ほとんどが縄文時代前期のものです。これは、海水面の上昇が最も進んだ約6千年から5千年に東京湾がこのあたりまで広がり、海岸線に臨む大地に人々が居住していたことを物語っています。しかし、この地に人が住むようになったのは、それより遥か以前のことで、市内から出土した石器により、今から約3万年も前の旧石器時代と考えられています。
3世紀から4世紀にかけて古墳時代が始まりますが、このころには久台遺跡(東1丁目所在)・ささら遺跡(東2丁目)などで集落や方形周溝墓などが営まれます。また、十三塚遺跡(閏戸)・ささら遺跡・椿山遺跡(市役所)には、古墳時代末期、7世紀ごろのものと思われる古墳があり、直刀や勾玉などが数多く出土しています。平安時代になると、元荒川の両岸で鍛冶集落が営まれ、末期には武士の台頭がみられます。鎌倉時代に入ると武士は次第に勢力を増し、有力武士は大きな館を構えるようになります。市内数か所に残る「堀の内」は鎌倉・室町期の武士の城館跡で、寅子石などの板碑とともに、この時代を知る上での貴重な資料となっています。江戸時代に入ると、村ごとに神社や寺院も建立され、庶民の間では庚申講や地蔵信仰、富士講等が盛んになります。また、享保年間には新田開発が精力的に行われ、村も増えていきます。今も沃野を潤す見沼代用水は、このころに造られたもので、農業用水のほか江戸とを結ぶ航路として利用され、昭和の初めまで多くの船が行きかっていました。
明治時代になると、廃藩置県により埼玉県の管轄下に入り、明治22年の町村制施行より綾瀬、黒浜、平野の3か村が誕生します。昭和9年、綾瀬村が蓮田町と名称変更し同時に町制を施行、次いで昭和29年、これに黒浜、平野の2か村が合併します。さらに昭和31年には岩槻市の一部を編入し、現在の行政市域となりました。そして昭和47年10月、市制を施行。当時35,274人だった人口は現在約63,000人となっています。
芥川龍之介の自撰自筆碑
円空仏(大黒天立像:矢島家)
寅子石
黒浜式土器
黒浜沼
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